高校一年の春休み。きっかけは図書委員でお世話になっている竹中先輩の珍しいお願いからだった。

「ねえ、くん。今度の大会で一日水泳部のマネージャーをやってくれないかい」

竹中先輩は図書委員と共に水泳部のマネージャーをしている。喘息持ちなので小さい頃に水泳をやっていたことが影響しているらしい。よく嬉々として友人の活躍ぶりや水泳部の近況を、当番が一緒のときに話してくれるので事情は知っていた。
一昨年から実力を挙げている河内高校の水泳部は、その噂を聞きつけて各中学から有望な選手が多数入部している。今や運動部の中でも指折りにはいるほど人数は多く、水泳部にしては珍しいくらいであった。ところがそれを支えるマネージャーは竹中先輩ただひとり、これではさすがの秀才と謳われている彼にも荷が重すぎる。ましてや竹中先輩は繊細すぎるほどの体調の持ち主で、未だ続く喘息と塩素アレルギーに苦しんでいる。
ここまで理由を飲み込んでいると断るほうが無理というわけだ。わたしは二つ返事で春に行われる大会へあくまで竹中先輩の補助として参加を決めた。


***


どちらかというとこの大会は高校同士の対抗というよりも、記録にこそ重きが置かれているらしい。だからこそ選手の出る種目を把握し、エントリーを済ませ、かつ自身でも記録を取る、また買出しにも出たりと意外にもマネージャーはやることが忙しい。おまけにこの人数では確かに竹中先輩だけでは回しきれない。大会当日がわたしにとって水泳部との初対面であり、かねがね聞いていた豊臣部長の紹介に預かって少なからず緊張した。

「秀吉はどうだい?」
「えっと、その、体格いいですね…」
「そうだろう。あれこそバッタの選手に相応しい筋肉の持ち主だよ」

どこかずれた着眼点の話をしながらもバ、バッタ?と首を傾げる。一瞬野原にいる緑色の虫を思い浮かべたが、竹中先輩を挟んで隣に大人しく座っていた男子が「バタフライのことだ」と親切に教えてくれた。ありがとうございます、と思わず敬語で返してしまったがよく見れば隣のクラスの石田三成くんだった。
この不健康なまでの色白さと、体育で活躍するも持久力には欠ける石田くんは一年の間で早くも有名な人物である。一学期に行われた体力テストでは100M走で見事な速さを見せ付けたが、マラソンも同じ速さで行ったために途中でガス欠。体育祭も騎馬戦で優秀な成績を収めたものの終わったあとに熱中症により担架で運ばれる。よくも悪くも目立つ生徒だ。
なるほど水泳部ならば彼の弱点を見事に克服できる競技と言えよう。

「そういえば三成くん、そろそろ君の出番じゃないかい?」
「はい。行って参ります、半兵衛様」
「(様!?)」

三成くんは身支度を済ませ早急に控え場所へ向かう。その前に部長へも挨拶を忘れなかった。秀吉様に半兵衛様、今時学生ではまず見ない呼称に驚きながらも彼が純粋に先輩を尊敬している気持ちが伝わる。
いつも隣のクラスと合同体育のとき、遠目で男子を見ていたときなどあったが三成くんはどことなく近寄りがたいオーラをもっていただけに意外な一面を見て認識が改まる。極端だけど、自分に素直な子なんだろうなあ…。とひとり納得していると、いつの間にか三成くんの出番が回ってきた。彼の得意種目はフリーだそうで、ストップウォッチを構えて合図を待つ。
『位置について』静まり返った会場に機械的なピストル音が鳴り、三成くんは綺麗なフォームでスタートの飛び込みを決めた。すいすいすいすい、水の抵抗をものともせずむしろ味方につけているようで、軽やかに泳ぐその姿に思わず見とれる。その組の中で三成くんは誰よりも速く、誰よりも早いタイムを叩き出した。

「自己ベスト更新だね。ふふ…まだ瀬戸内の元親くんのベストタイムでは負けているものの、今回の大会では彼よりも早い」
「その元親さんって早いんですか?」
「そうだよ、今のところ全国レベルの三位内に入る選手だ。関東だと次点で婆娑羅の政宗くんかな。もっとも彼は以前の大会で、三成くんに大きなタイム差をつけられたから意気消沈しているようだけどね」

竹中先輩から聞く三成くんは関東、それよりも上の全国にも負けず劣らずの戦歴を持っていて、自分と同じ一年生(もうすぐ二年だが)なのに随分と差があるものだなあと思う。一種のアイドルのように別格で、わたしはそれを遠くからいつまでも眺めているようで、このままじゃ嫌だなと不安に駆られる。

「さて、三成くんが終わったらあともう少しだからね。これが終わったらジュースを奢ってあげよう」
「えっ いいですよそんなっ!」
「手伝ってくれた御礼くらい払わせてくれたっていいだろう。ここは先輩に花を持たせると思って」

竹中先輩の少し寂しそうな顔にハッと気づく。先輩は学校が始まれば三年生、受検のシーズンだ。まして進学校の河内はただでさえ勉強第一なので部活に構っている時間はいまより短くなるだろう。それなのに彼の後を継ぐべきマネージャーは誰も居ないのだ。

「あの…竹中先輩」


***


もう泳がない三成くんは水着から着替えてすっぽりジャージ姿でてくてくと河内が陣取っている場所へ歩いてきた。同じようにまた部長さんのところへ真っ先に行き、大きな手のひらでよくやったと褒められると、嬉しそうな表情を見せる。そうして再び同じ席に座ったが、竹中先輩は最後に顧問の先生と話し込んでおり不在だった。ひとつの空席を挟んで三成くんとわたしが並ぶ。

「あの、三成くん」

おそるおそる名前を呼ぶと、話しかけられるとは思っていなかったのか少々驚いた顔をして三成くんがこちらに視線を向けた。

「半兵衛様を手伝っていた女子か…」
「隣のクラスのです」
「む、そうだったか。すまない、人の名前と顔を覚えるのが苦手でな」
「これから覚えてくださいね。わたし水泳部のマネージャーになることが決まりましたので」
「…そうか」

人の一大決心だというのに、今度は予想が外れてまったく驚かずにあっけない一言で片付けられてしまう。三成くんと上手くやっていけるかしらと早くも心が折れそうになったが、突然にゅっと差し出された手にびっくりして目を見張る。

「よろしくな、
「う、うん」

変わらずにそっけない言葉だというのに、思ったよりも随分と爽やかな笑顔で言われたものだからどぎまぎして手を重ねた。


(120104) ハッチへ!