「ささ、御一献」
「はあ…」
並々に注がれたお猪口を無言で見下ろし、辟易した様子ではため息をついた。周りは飲めや歌えやの宴会騒ぎで、敵陣は目と鼻の先というのに随分と悠長な事である。
「いくら昨晩敵を退けたといっても、いつ態勢を立て直して夜襲を仕掛けてくるか分かりませんよ」
「なに、殿がいらっしゃれば呉の軍師など恐れるに足りません」
バシバシと背中を叩かれて、酒が僅かに零れる。
なるほど確かに昨晩はの献策によりかろうじて緒戦の勝利をもぎ取った。だが相手はあの呉の陸遜、夷陵の戦いは今でも記憶に新しい。
何よりも気がかりなのが、投降してきた周魴という男だった。主、曹休の徹底した調査により間違いないとされているが果たしてどうだろうか。策謀の多い呉のことだ、赤壁のように偽りの投降と考えられなくも無い。
「……宴は早々に切り上げましょう、嫌な予感がします」
「心配性な事ですなあ。今に魏の威光を恐れて、次々と呉の将も投降してくるに違いないですよ」
とっくりを傾けて、からからと笑う暢気な男を睨みつける。こうなったら自らまず武装して諸兵の手本となるべきかと席を立とうとしたときだ。
「うわあああ、敵襲だああああ!!!!」
悲痛な兵の声が辺りに響いた。途端に酒を落として騒ぎ出す兵たちを宥めようと声を挙げるが、奇襲によりもはや統率が困難であった。火矢が背後の山の斜面から次々と放たれて、陣が燃えていく。
「落ち着いて後退せよ、取り乱すな!曹休様と合流を!!」
声を張り上げて命令を下すが、その内周魴が裏切ったとの報まで飛び交うと収拾がつかなくなっていた。これでは…と半ば呆然としていただったが、目の前に立った火矢に正気を取り戻し、自身も撤退せねばと周囲を見回した。手近にいた火に怯える軍馬の手綱を掴み、暴れるのを捌いて駆け出す。
が、兵たちが逃げる火が手薄の場所を見たときは罠だと知り絶望した。わざと出口を作り、そこを一挙に叩く寸法だろう。なんと用意周到な策だろうかと思わず感心してしまう。
「右方から出ます」
「えっ、ですがあちらは火の手が激しい…」
「あちらは陽動です」
わずかに残った手勢に指示を下し、戸惑うも付き従ってくる姿にほっとした。これだけいれば万が一どこかの部隊と鉢合わせしても切り抜けられるだろう。たちは猛然と迫る業火を突破し、川縁に出た。
「お待ちしていましたよ!」
「なっ……」
対岸にひしめく大軍に声を失った。松明と、火矢の明るさが多いことがそれを示している。意気揚々と声をかけてきたのは見間違うはずもない、陸遜だ。二振りの剣を両手に携えて挑発的に微笑んでいる。
「昨日の策お見事でした」
「それは、皮肉ですか…?あれは周魴の布石に備えての偽装だったのでしょう」
「ええ。ですがこうして見えることが出来、確信しました。このまま落ち行くには忍びない華です、どうか呉へ、……いえ私の下へ来ませんか?」
「裏切れとおっしゃるのですか。そのように侮られ、愚弄されるなど耐えられません。私とて武将の端くれ、策だけではありませんよ」
護身用に佩いていた剣で空を切り、抜刀する。投降の意志がないことを強く示すと、陸遜は残念そうに顔を歪めながらも構えた。一騎打ちに応じてくれるらしい。
鋭い一撃が投げられた。小柄に見えるもののさすがに力強い。そのまま受け流すように剣筋を逸らした。何度か打ち合うが、次第に実力の差が見えてくる。とうとう体力に限界を感じたとき、弾き損ねた剣が振り下ろされた。
ここで朽ち逝く運命(さだめ)だったとは……、覚悟をして目を瞑り刃が食い込むのを待った。
「……?」
しかし一向に痛みは来ない。そろりと目を開けると、目の前に剣の切っ先が突きつけられている。
「武将の貴女は死にました」
「……何を、」
「これからは私と共に、女として歩んではくれませんか?」
「! …物好きな人ね」
逡巡してそれから彼を見上げる。にっこりと微笑み手を伸ばす姿は、いつか夢見た貴公子のようで、不覚にも胸が高鳴った。この手を取っても許されるのだろうか。おそるおそる手を出してみると、力強く掴まれる。
「最後まで、いえ、ずっと一緒ですからね」
「は、はい…」
(120216) いろはちゃんへ!