「私あの人苦手です」
「、慎め」
憚ることもなく公言したを、碁の相手をしていた夏侯惇は嗜めた。目と鼻の先である中庭では張遼と徐晃が鍛錬をしている。あの人、とは張遼のことを差していた。夏侯惇も理由は分からないでもない。
自身が戦うことを生業としているように、彼女の家柄は武官であった。父はその張遼によく仕えたが、赤壁の戦いで命を落とした。勿論張遼が父の死に直結したかと問われればそうではない。ただ、なんとなく苦手意識が拭えないのも無理もないことだった。
「殿はどうして私をあの人のところへ配属したのか理解に苦しみます」
「孟徳の采配にもケチをつけるな」
「……はい、夏侯惇さんアタリです」
「えげつないやつめ…」
夏侯惇は恨めしそうにこちらを睨みながら、碁盤を皿のようにして眺めている。その隙にちらりと中庭を見た。二人とも武に関しては並々ならぬこだわりを持つ。だからだろうか、刃を合わすだけでも洗練された動きに思わず目がいってしまう。こうしている時は少しだけ父の、この人についていこうと思った気持ちがには分かった。武人として美しいとただ素直に思う。
つい長いこと見てしまっていたのだろう。ふと、張遼と目が合った。ぎくりとして思いっきり顔を逸らしてしまう。我ながら上官に対してなんと不躾な態度だろうか、と頭を抱えて悩みたい。
「ああ、くそ、負けた!」
「今日はもう終わりにしましょう」
「勝ち逃げは許さん…、と次の任地は合肥か」
「ええ」
「そうなると結構間が空くな。それまで必勝の策を編み出してやる」
「期待はしないでおきます」
は整然とヨセで並べられた碁石を見てため息をついた。
合肥城には黒の碁石が、陸口には白の碁石が、地図上に並べてある。孫権軍、その数十万と聞き及んでいるのに、こちらはたったの七千。誰もが絶望的な観測しか出来ない中で、張遼の判断は早かった。
「奇襲をかける」
幕舎に動揺の声が走るのも当然といえば当然の反応だ。寡兵ならば結束して守備に当たるべきだと主張する諸将の考えと同じだった。
「いったい奇襲に割くおつもりですか」
「精鋭800騎でよい」
「そんな…無謀すぎる!」
「しかしこのままでは救援の前に我々は負けるだろう。曹操様からこの地を守備せよと命じられている。この奇襲が成功するか否かで戦局は動くのだ、何をためらうことがある」
はその張遼の真摯な態度に胸を打たれたと言ってよい。ここでこうして考えを巡らせても、孫権の包囲網が築かれる前に打破するしか方法はないのだ。ならばここは動くとき。
「分かりました。ただし条件があります」
「……?」
「私も随行することを許可していただけねば、ね。張遼殿」
「! 容易い御用だ」
合肥に張遼の供として赴いたが蟠(わがかま)りが消えることはなかった。その仲は殿の憂うところとなっていたことぐらいとて承知している。だからこそ、殿は私を張遼の側に置いたのだろう。国家の存亡に置いて、意見を争っている場合ではない。魏は一丸となって、事に当たらねばならぬと教わった気がする。
「殿が真っ先に賛成してくれたのには驚いた」
軍議が終わり、幕舎に出たときだった。張遼が言いにくいことそのものずばり指摘し、は思わず笑ってしまった。張遼も存外のことを気にかけていたようだ。
「私とて場を弁えておりますれば」
私情で戦況を左右する愚を知っている、とほのめかす。なるほどと納得したように張遼殿は頷いた。
「……何でも、呉の凌統は甘寧に父親を殺されたとか。しかし彼らの間には信頼関係があります。敵でさえ出来ること、にも出来ないはずがありませぬ。此度の奇襲、張遼殿の成功を確信しています」
「嬉しいことだが、圧力をかけられているのは気のせいか?」
「ふふ、まさか」
(120210) たきさんへ