それはひどく暗い暗い絶望の淵だった。絶えず揺れる鉄格子の外は布で覆いかぶされている為に視界は闇が取り巻いている。時々傍にいる女性たちのすすり泣く声が聞こえた。けれど慰めの言葉は一切ない。なぜならわたしたちは実の親に売り飛ばされ、それが合意にせよ強制にせよ、最早助けを求める純粋な子供ではない。もちろん乞えば助けが来るのならば喜んで高らかに叫ぼう。だが、叫べば必ず身に災難が降りかかることは目に見えていた。助けようとする者も、わたしたちも、タダでは済まされぬ。
ガタン、ゆるりゆるりと失速して滑車は止まった。コツコツコツ、澄ました靴の音が近づく。布は取り払われたが落ち着いた先も薄暗い。嘗め回すような視線を感じた。否、暗闇に慣れたせいではっきりと男の姿が見える。裕福そうにたるんだお腹が恨めしい。わたしたちを売ることで利益を得ているこの男が憎い。憎悪を込めた目で睨むとそれに気づいた男が、手すりを掴んでいたわたしの手を踏みにじった。

「ふん、胸糞悪い女だ。どうせお前につく額など高が知れるだろう」

懸命に痛みを我慢してそれでも睨めば、ご丁寧にも男は唾を頬に吐いて立ち去った。汚らしい、汚らわしい、忌まわしい、悔しくて涙が出そうだ。
しばらく寒い滑車の中でひとり泣いた。身を包むのは襤褸切れのような薄い布だけだ。ガチガチと歯が震える。鳥肌を摩ると、眩しいほどの光が差し込んだ。とうに絶望したはずのわたしは期待を込めて見た先には矢張り絶望しかなかった。

「これはまた…たくさん連れてきたものだ」
「嫌ですよ、人聞きの悪いことを言いなさらないでください松永様」
「いやはや卿の欲深さには恐れ入る」

紳士、という言葉がまさに相応しい。一目で高価と分かるタキシードに身を包んだ男とわたしには天と地の差があった。同じ空間にいるのにも関わらずこの壁は何だろう?相変わらずわたしは睨むが、それには羨望の思いもあった。この男は買う側の人間だ。
松永様、と呼ばれた男は辺りを一通り見回すとツカツカとこちらへ歩んでくる。

「…ほう、君の視線は嫌に情熱的だね」

そしてわたしの顎をぐいっと乱暴に掴んだ。情熱的、とは…皮肉な言い回しだ。憎悪を含めた殺気にも等しいということが分かっているだろうに。

「そいつは生意気でしょう?」
「ふむ…おまけに随分やせ衰えている」
「ついでに貧相な体つきだ」

男が下卑た笑いをする。むかむかとどす黒い感情が胸に渦巻いた。

「黒曜石のような瞳をしているな」
「まるでカラスを連想させるほど黒いもんだ、松永様それよりこちらの女はどうです?色白で胸もほら、」

別の檻にいた女の腕を乱暴に男は引っ張る。ところがこの松永という男、見向きもせずにひたすらにわたしの瞳を射抜く。流石に居心地が悪くなり視線を逸らそうと身じろぎしたところで、男は顔を近づけてわたしにそっと囁いた。

「…私が手助けをしてあげよう」

訳が分からずに何を言っているんだともう一度視線を投げかけた。下手に喋れば男に折檻されかねない。

「なに、簡単なことだ。君とてあの男の野蛮さにはうんざりするだろう?ひとつ復讐劇でもしようではないか」
「松永様!そのような女などほっておいて、もっと極上品がありますから」
「いいや、この女を買おう」

すっくと立ち上がり松永はテーブルにどさりと金が詰まってそうな袋を置いた。わたしは思わず目を見開く。それはあの男も同じだった。

「…え?いや、ですがあれよりも…」
「おや、卿は私の好みを否定する気のようだね?そういえば先ほども、」
「いいいいえ!とんでもありません、ど、どうぞどうぞ」

慌てて取り繕うように男は急に態度を変えて急ぎわたしを檻から出した。まるで貴婦人にするかのように松永はわたしの手を取りやさしくキスを施す。そして抱き寄せて松永は心底愉快そうに言い放った。

「今からこの女はわたしの妻だ」
「…は、」

なるほどこれは面白い復讐劇だ。わたしは彼の意図を理解して、丁寧に男へ挨拶をした。

「先ほどは熱烈な歓迎をどうもありがとうございました」

ひらひらと踏まれて赤く腫れ始めた手を見せ付けるように振った。それに青ざめる男の顔と言ったら!ああ、なんて愉快なのかしら。わたしは久々に晴れ晴れとした気持ちで松永と店を出た。それからひとしきり笑いあう。

「来なさい、流行の服でも買ってあげよう」
「ありがとう松永様」
「久秀でよろしい。思ったとおり君はなかなかに聡明な人だ。私の妻たるに相応しい」
「あなたこそ、わたしの夫には過ぎたるお方です」

外に待たせてあったらしい馬車に手を引かれて乗り込み、美しい町並みを駆け抜けた。生まれ変わった世界はこうも心をときめかせてくれる。久秀様の腕の中でわたしは幸福を噛み締めた。

「さて困ったことに私は君の名を知らない。教えてくれるかな、レディ」
「ええ、喜んで」


おいで、君にとっておきの幸福を授けようではないか


(100430)
中世ヨーロッパ風味の貴族松永様によって奴隷から救われるヒロインちゃん。ご、ごめ、暗くてじめじめしていて。全然ハピパじゃないいいい!めーちゃんはもっと美しいのに…、大好きなんだから!むしろ愛しているんだから!