「わりィ、今日は帰れそうにもない」

たったその一言でわたしは絶望に落とされた。受話器を持つ手が震える。落ち着いて、小十郎さんは仕事なのよ。わたしの我がままで困らせるわけにはいかないの。もう決まったことなんだから、もう、決まった……。

「そ、ですか、」
「帰りは多分始発になるだろうから先に寝てていいからな。明日は休みだから、ゆっくりと二人で過ごそう」
「……っ、はい」
「本当に悪いな。せっかくお前の」
「いいんです!わたしのことなんかよりも、小十郎さんはしっかり仕事して来てくださいね」
「おま、」
「も、もう寝ますね!お休みなさい」

ガチャンと音を立てて電話を切った。一気に捲くし立てて、はあはあと息が漏れる。怪しまれなかっただろうか。最後の方は嫌味に聞こえなかっただろうか。小十郎さんに呆れられたり、嫌われたりしてないだろうか。たくさんの不安がごちゃまぜになって頭が今にもパンクしそうだった。
息を整えるようにソファへ雪崩れ込むように座った。後ろをちらりと振り返る。リビングに置かれたテーブルは、腕によりをかけて作った自分でも自信を持って言える豪勢な料理。そして冷蔵庫には誕生日ケーキ。
今日はわたしの誕生日だった。わたしと彼が付き合ってからもう幾度と誕生日を迎えているが、彼がいない誕生日は初めての経験だった。それだけにショックが大きい。こうして歳が経るにつれて感動も薄れてしまうのだろうか。そう思うと悲しくて仕方が無かった。
けれども小十郎さんが仕事で忙しいのもわたしを食べさせてくれるためだ。ここは我慢をするべきところ。分かっていてもどうしようもない悲嘆にくれる。

「小十郎さんの、ばか…」

席へ着き、やけ食いをするように無心に料理へ手を伸ばす。せっかく料理だって小十郎さんが喜んでくれると思って作ったんだよ。ケーキだって、甘いものが苦手だから控えめのものをわざわざ選んできたんだよ。今日は早く帰ってくるって言ったから楽しみに待ってたんだよ。

誕生日は、一年に一回しかないんだよ。もう同じ誕生日は二度と訪れないんだよ。明日なんかじゃ、全然意味、ないんだよ。

「……うっ…」

一人で食べる料理はすごく味気なくて、あまりにも寂しくて、惨めで、涙が止め処なく落ちる。そのうち嗚咽混じりになって、箸を持つ手も止まり、テーブルに突っ伏してしまう。ばかばかばかばか!小十郎さんの仕事人間!おたんこなす!
支離滅裂な罵倒を頭の中で繰り返しているときに、ピンポーンと非常に空気の読まないインターホンが鳴った。例えいま友達のサプライズ訪問だったとしても、まったく喜べない。相手が諦めるように祈ってそれを無視した。

ピンポーン ピンポーン ピピピンポーン

なんてしつこいやつだろう。怒りでドンッとテーブルに八つ当たりをした。これだけしつこいのなら文句を言ったって神様も許しくれるだろう。涙を拭くわけでもなく、ずかずかと音を立てて玄関を仁王立ちして睨む。ピンポーン。再び鳴ったチャイムと共に扉を勢いよく開いた。

「いってぇ…!!!」

ガンッと何かに当たった衝撃、そして開けた扉と半歩開けた先に蹲る男の人。一目で扉が額に当たったのだと気づいた。謝ろうとした声を、相手が誰かと気づいた時点で止める。
さっきまでの小十郎さんに嫌われることを恐れていた自分はすっかりどこかへ行って、怒りと悲しみに支配されたわたしは彼を締め出そうと扉を閉めにかかった。その音に気づいた男の人、小十郎さんは慌てて扉を押さえる。

「待ってくれ、悪かった!」
「始発で帰ってくるんじゃなかったんですか」
「いや、お前の様子がおかしいから、タクシーで帰ってきたんだ」
「…様子だっておかしくなりますよ」

キッと短い扉の隙間から背の高い小十郎さんを上目遣いに睨む。きっと涙でぐちゃぐちゃになってるわたしの顔で凄んだって何にも怖くないだろうけど、それでもこれはささやかな彼への抵抗だった。

「今日早く帰ってくるって、朝言ったのは誰ですか」
「…俺だ」
「一緒に誕生日を祝おうって、メールで言っていたのは誰ですか」
「……俺だ」
「わ、わたしが、たくさんお料理作って、ケーキを用意して、待っていたのは、だ、誰ですか!」

零すまいとしていた涙はまたわたしのいうことを聞かずに後から後から落ちてくる。そんなわたしを優しい手がしっかりと抱きしめてくれた。悪かった、本当に悪かった。何度も小十郎さんは苦しそうに謝る。

「まだ、今日は終わってない。今から俺に誕生日を祝わさせてくれ」

わざわざ玄関前で小十郎さんはスーツ姿のまま膝をついて、わたしの小さな両手を大きな手で包み、不安げに顔を覗きこむ。

「…仕方ないから祝わせてあげます」
「忝い」

赤くなった鼻を押さえて、まっすぐな視線から逃れるように呟くと、小十郎さんはとびっきりの笑顔でわたしを再び抱きしめたのだった。


(100815)