真冬の冷水に浸るとは正気の沙汰ではない。は我が身の不幸をひたすらに嘆き、霜焼けですっかり赤くなった裸足で井戸の淵に立った。大晦日の中、固唾を呑んで後方から見守る村人達の視線が痛いくらいに突き刺さる。村の悲願はただひとつ、この豪雪と度々の洪水が沈静化されること。そしてはその為に竜神へ供物にと捧げられる人柱であった。
皮肉なことに己の身を助けてと希う相手すら同じ神なのだ。ゆらゆらと凍える風に揺れる水面の底には何が待っているのだろう。考えることを一切拒否するように、はゆっくりと瞳を閉じ、その身を投じたのであった。

冷たい。
当たり前の感情が今は無性に恨めしい。キリキリと体を切り裂くように、冷たくて、冷たくて。僅かに残った酸素は水泡へと帰し、を置いて天上へと昇っていく。決して浮かばぬようにくくりつけられた重石が枷となって暗く冷たい水底へと誘った。

(生きたい)

どうして自分が死なねばならないのか。充分理解しているつもりだった。今になってその疑問が唐突に沸く。いや、それよりもどうして生きられないのだろう。走馬灯の代わりに、やり残した後悔ばかりが思い浮かぶ。
最後に帰りたいと伸ばした手を誰かが掴んだような気がした。


温かい。
真綿で包まれたような温かさと、目を覚ませとばかりに太陽の日が当る。そろりそろりときつく閉じていた瞳を開けた。水滴のせいで頬に張り付く髪をかきわけて、濡れた衣服で重い体を起こす。シンとした木立の中、ここだけがまるで春のように暖かい。現に緑の絨毯にオオイヌノフグリがひっそりと咲き、そよそよと優しい風が吹く。
はそれから何かに気づいたようにハッとして目の前に広がる澄んだ湖を眺めた。ピチャリと水を跳ねるような音が響く。魚にしては、尾が長い。おそるおそる近寄ってみると、それに気づいたように水の主は水面からその神体を表した。

「りゅ、竜神様…」

薄々気づいてはいたが、既にこの身は現世(うつしよ)に在らず、常世へと参ったかと悟り、はあふれ出す涙を止めることが出来なくなった。
竜の尾が拭うように頬を撫で、そこから毛羽立つように鱗が分散してゆく。いつの間にか大きな手がの両頬を包んでいた。

「どうして泣く。お前は助かったんだぜ」

この世のものとは思えぬほど端正な作りの顔がこちらを覗き込む。

「助かった…?」
「そうだ。愚かな人間の供物にされて災難だったな神の子」
「何を言って」
「俺が今からそう決めた。安心しろ、その身を投げた意義を俺は否定しない。少しは冬の神に口利きしておいてやる」
「…ありがたき幸せにございます」

竜神は少し驚いたように目を見張り、それから照れたようにぽんぽんと優しくの頭を撫でた。

「お前の生きたいという強い意志に引かれただけだ、気まぐれに過ぎない」
「それでもありがたいことです。あの、それで、わたしはいったいどうなってしまうのでしょう」
「…そうだな、お前さえよければ共にここですごさないか」
「竜神様と?恐れ多いことでございます」

あまりにも見つられるものだから、はすっかり参ってしまって畏まり、俯いてしまう。竜神は優しく顎を掬い上げて再び視線をかち合わせた。

「お前、名前は?」
と申します」
「そうか。、神の申し入れを断ることは勧めないぜ?これは竜の背に乗るchanceだ、逃す手などない」
「ちゃんす、ですか」
「That's right. 異国の言葉を少々嗜んでいる。人の世は実に面白くて飽きない。特にお前のような人に会うことは俺の人生に潤いを与える」

おや、これはもしや口説かれているのか。は村で若い男から聞くような甘い言葉に似たそれに、存外神も人と似ているのかもしれないと思った。いや神から人が作られたのならば、親に子が似るのも道理というもの。

「あの、竜神様の御名は」
「…大胆な娘だな」
「す、すみませぬ」
「責めているわけじゃねえさ。むしろ嬉しいねえ、俺に興味が出てきたようで。そうだな、政宗と名乗っている」
「政宗様。よろしいのですか、このような小娘を傍に置いて。貴方様の品格が疑われるようなことがあっては身の置き所がありません」
「俺のものを謗ることは即ち俺を謗ることに他ならない。そんな馬鹿な神がいたら、俺がこの六爪で切り刻んでやるだけだ」

スッと水の中から一振りの刀を取り出す。すらりと抜かれた刀身に政宗のひとつしかない瞳が愉悦に歪む。
彼のその姿を美しいと思うのは何故だろう。己の欲のために動くことが人の世ではかように醜いとされていたのに、それがどうだ。神の世界ではこうも美しいものなのか。自然と惹かれていくこの気持ちに嘘などつけようがなかった。

、俺と共に来てくれるな?」

全てを見透かしたように、左手に刀を持ち、右手をこちらに差し伸べる。
竜神と共にあった人の子は末永く水の中で暮らしたそうな。村でいつまでも語られている話である。


(120101) happy new year
辰年いえーい!!