ふう、と吐き出した息は真っ白だった。空気はひどく澄んでいて、塞いでいた気持ちがいくらか晴れた。崖下を見下ろせば、朝餉を炊き始める煙が続々と民家から昇っていく。付近にある雄大な湖面は見事に氷を張っていた。そのひとつひとつの光景が美しい。
冬は嫌いではない。寒さは応えるが、雪によって進軍は阻まれる。かの長尾景虎、いや上杉と名乗っていたか。聳え立つ山に待ち構える我が武田の軍勢、上洛出来ないのは自明の理であった。かといって背後に彼がいることで我らも油断は出来ない。
話は逸れたが自然、天災ばかりは人間にはいかんともし難いこと。だから冬は束の間の平穏を味わう季節だ。

「このようなところにいたと知ったら独眼竜もさぞかし驚かれることでしょう」

くすりと隻眼の男を思い出して微笑む。いつぞやの幸村に内密で先鋒に紛れたとき、彼の驚いた顔といったら。いつ矛を交えるかも分からない間柄というのに、どうにも憎めない相手である。彼と刃を交える緊張感と高揚が感情を狂わせているに違いない。

「俺が、何だって?」
「……っ!あ、」

背後から突如かかった声に驚き、身を翻して引く。ところが後ずさった足は砂利に取られた。平衡感覚を失い体は崖へと倒れていく。
けれど、伸びてきた両の手に救われた。そのまま強い力で引っ張られ、反対方向へともつれる。
置いた手は彼の逞しい胸板に、そっと距離を取って顔を覗きこんだ。

「ど、独眼竜…なぜここに」
「そりゃこっちの台詞だぜ。Why are you here?」

流暢な異国語に戸惑ったがおおよその意味は文脈から汲み取れる。

「ここはまだ武田の領地ですが」
「硬いこというな。いずれは俺のもんになる」
「大胆な宣戦布告ですこと」

生憎と憂さ晴らしの遠出だったため、得物はない。懐に忍ばせている小刀に手をかけた。勘付いた政宗は彼女の細い腕を掴んだ。

「互いにお忍びなんだ、無粋な真似はcoolじゃねえな」

さすがは奥州を治める男と褒めておこう。諦めて彼の上からどこうとする。が、がっちりと抱え込まれていて身動きがとれない。咎めるように政宗を睨む。

「…くーるじゃないのはどっちでしょう」
「ハッ せっかくだ。アンタも奥州に来いよ」
「冗談は嫌いです。誰が伊達軍になど下るものですか」
「ノゥノゥノゥ… 伊達軍じゃねえ、伊達家にだ」
「それは、どういう」

意味ですか。と、問おうとしたところで唇が何かに甘く食まれた。言葉は飲み込まれ、思わず彼の端正な顔を凝視してしまう。すぐに離れたそれは彼の唇だった。

「あ、あああなた…いま!!」
「次に会うときは問答無用で浚ってやる、覚悟しとけよ?姫さん」

するりと頬を撫で、何食わぬ顔で伊達政宗は茂みに立っていた馬にひらりと乗る。取り残されたわたしは呆然と唇をなぞった。い、今のは…接吻よね、間違いなく。自然と頬に赤みが差す。
次はどのような顔をして会えばいいというの。途方に暮れて岐路に着いた。


(100204) あげはちゃんへ
ハッピーバースデー!!