氷解する悲哀


茶屋へ行かぬか?任務から無事帰還し主から久しぶりに賜った締めの言葉はそれだった。あたしは思わず顔を綻ばせる。ああ、この方はいつになっても変わらない。それが何よりもあたしをホッとさせてくれた。弁丸さまの時から忍としてお仕えして十年は優に過ぎているだろう。昔から甘味には目のないお方だから。まったく隊長に見つかったら大変ですよ?そう窘めてはいるものの、自然と漏れる笑みは隠せない。いつの間にか逞しくなられた背を見つめ、再び思いを確かなものにする。やはり、仕えるべき主は幸村様しか居られない、と。じっと見つめていたことがばれたのか、幸村様はふいにこちらを見た。何をしている?早くせぬか。あたしの手を握り、ずんずんと幸村様は先へ行く。おや、おなごの手を握るのも破廉恥と叫んでいた方が。僅かな疑問が生じる。果たしてあたしの知る幸村様はこんなに大胆だったかしら。茶屋へ着き次第、あたしは理解した。ぱっと手放され、行き場を無くした腕。六紋銭を揺らして駆け寄る幸村様。笑顔で受け答えするおなご。馬鹿馬鹿しくなった。今なら往来で笑い転げる自信がある。幸村様も立派な男児になられた証拠ではないか。あたしは何を期待してたのだろう。何を自惚れてたのだろう。変わらないのはあたしの方だ。



炎上する嫉妬


茶屋へ奉公するようになってようやく仕事を覚え始めた頃だ。時々赤いお侍さまが嬉々として通ってくるのに気づいた。彼は供の男にそれはそれは大きな声で話しかけるものだから自然と覚えてしまったというのが正しいかもしれない。彼が来ると笑いが耐えなかった。毎日の繰り返される厳しい業務の中、いつしか唯一の癒やしを与えてくれる存在にまで膨れ上がっていた。女将さんに真田源次郎幸村様と教えていただいたときはたまげたものだ。あまりにも身分がかけ離れている。しばしそれで悩んだことはあった。けれど有り難くも幸村様が、具合でも悪いのか?と尋ねてくださってからは悩むことを止めた。いつか幸村様は美しい姫君と婚姻なさるのは決まっている。だからわたしはせめて彼の心に残るくらいに、その日まで努めようと思った。恋心を抱くことくらいは自由でしょう?妻になりたいだなんて言うほどわたしは愚かでもなく、厚かましいこともなく、現実を見ている。そう思っていた。それなのに突如としてどうしようもない気持ちが押し寄せる。女を、女を伴って幸村様はいらっしゃった。それも遠目から見て仲むつまじげに手を繋いで。激しい憎悪が沸き起こる。きっと女がわたしと身分が大して変わらぬほどの衣装を身にまとっていたのも原因だろう。余計に羨ましくてならなかった。ああしてわたしが幸村様の隣にいられたらどんなに嬉しいか。その後のことをよく覚えてはいない。ただ誰かの悲しい笑い声が耳にこびりついて離れなかった。



(100615)