※死ネタを含みます、また史実に忠実ではありませんのでご注意を


「ほら、動かないでくださいませ」
「うむ……そうは言っても、」
「往生際の悪い殿方ですこと。武士たるもの、戦に出るならば毎度通る道でございましょう。いつになったら慣れるのですか」

辛抱のきかない夫に痺れを切らして、大量の白粉を健康的な肌に押し付ける。その粉っぽさに幸村はうっと喉を詰まらせて次に咳き込む。からからとその様子を笑っては化粧箱から最後に貝を取った。幸村の陣羽織を想起させるような艶紅が中には入っており、その名のとおり紅差し指でそっとひとすくい。今度は神妙な顔をする幸村の唇に引いてやる。
さあ、これで戦化粧が済んだ。

「まっこと凛々しいお姿でございますよ、幸村様」
「いつも世話をかける」

ようやく終わったとばかりに肩の力を抜いた幸村に、香を炊き込めておいた陣羽織を肩からかけてやる。間もなく夜も明けよう。そうすれば幸村も自身で最後の戦かも知れぬと漏らしていた徳川家康との決着に向かってしまうのだ。

「恨めしい朝ぼらけですこと(*1)」
「……
「もちろん、貴方様が万が一にも討たれる覚悟はとうに出来ております。ですが…どうか帰って来ることを信じさせてくださいませ」

自身声が震えていることが分かっていた。涙が瞬きをすれば零れてしまうほどに夫の姿も霞んで見える。幾多の武将を葬った無骨な手が優しくの頬を撫でる。最後のお別れとばかりに幸村が口を吸った。

「まあ、せっかく引いた紅がついてしまったでは、ない、ですか…っ!」
「泣くな。そなたに泣かれるとどうしていいか分からなくなる。別れが名残惜しいではないか」
「わたしは、こ、このような薄情な男を夫に持って悲しいのです」
「某はを妻に持って幸せであったぞ」

荷葉の香りに包まれては夫幸村との今生の別れをひたすらに惜しんだ。


***


そうしてよもやかように再び出会うことなどは夢にも思わなかった。覚束ない足取りで台座に置かれた首桶へと歩く。これが、これが我が夫の幸村なのか!軽く眩暈がしそうになりながらも、目の前の現実から逃れることなど出来ない。

「奥方殿、よろしく頼む」

憎らしい仇が殊勝に上座から声を掛ける。敵の手に落ちるならばと大坂が落ちる前に自害しようと試みたが、再び夫に会うためだけには甘んじて徳川の捕虜となった。さすがに自身の首を脅かした日の本一の兵と評させる妻だけにあって、待遇はいいもののはそんなことでこの男の認識を改めることなど決してない。むしろその優しさはますます彼に対しての憎悪が膨らむばかりであった。
ただこの首実検に兄信之ではなくを指名したところだけは感謝している。例えどのような姿になっていたとしても、火葬の前に一目彼の生前の姿を焼き付けておきたかった。
ぎこちない手つきで蓋を開ける。ゆっくりと中を覗き込んでみると、あった。夫の戦化粧できれいなその顔(かんばせ)が。あの暁時に優しく別れを惜しんだ唇が開かれることはもうない。白粉のせいでより血の気が失ってみえる幸村に、涙を抑えることが出来ようか。恥も外聞も捨ててぼろぼろと幸村の頬を愛しげに撫でる。

「幸村様、は嘘を付きました。貴方様の妻でいられたこと、本当は何よりも幸せに感じておりました。ですが、ですが…このような別れをするために連れ添ったわけではありませぬぞ…!」

強く握った拳を振り下ろした音は畳に吸い込まれた。


***


その後戦後の処理で徳川方は立て込み、ようやく一段落付いた頃にの処遇が決まった。実家も豊臣方についていたため今は無く、身寄りがないにもはや政治的価値はなく、無事に開放される形となる。当日、わざわざ江戸に滞在していた伊達政宗が見送りに来た。生前の幸村とは好敵手であり、も何度か顔を合わせたことがある。

「これからどうするつもりだ」
「…尼寺にでも入り、死が訪れるまで夫を弔い続けようと思います」
「あんたが尼にねえ…そんな大人しくているたまじゃないだろ?」
「ふふ、そうですね。まずは鹿児島(*2)にでも行ってみようかと」
「悪いが俺は味方してやれそうにもないぜ」
「結構ですとも。まずは竜とやらを地に引き摺り下ろして、狸を煮て焼いて食ってやりまする」
「上等だ。それまで達者でいろよ」
「政宗様こそ」

遺骨を大事に抱えては江戸を発った。彼女の鬨の声が聞こえるのもそう遠くは無いだろう、と政宗はひとつめで空を仰ぐ。果たして一年後に、徳川の元へ注進屋が「九州にて反乱あり。旗印は六文銭」と伝えたときには家康身震いが収まらなかったという。


(120105)

*1 「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな 藤原道信」夜が明けてしまうと日はまた暮れ、そして再び逢えるとは知っていますが、やはり恨めしい別れの夜明けですよ。
*2 「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退きも退いたり鹿児島へ」という伝承が残っている

対面 高貴な身分のものの「首実検」に使われる用法