神様ありがとう
「やだ、お家帰る!」
新しく来た男の子はプールにいざ入ろうというとき駄々をこねた。コーチの追いかける手を一生懸命振り切ってわたしの後ろへ隠れる。それをコーチが説得しようとするとますます男の子は泣きじゃくった。
「行ってみようよ」
「やだやだ!水怖い!」
「わたしがいるから大丈夫、溺れそうになっても助けてあげるから」
「…本当?」
「手、繋いで、ね?」
「……うん」
ぎゅうと小さな手のひらがふたつ重なる。そうして二人でプールサイドに駆けだしたとき、光に包まれた。
がたん
大きな音とともには腰を打ち、小さく呻いた。さすりながら縫いついたような瞼をゆっくり開ける。そこには見慣れた自分の部屋が映った。あれは夢かとすぐに思い出す。随分懐かしい夢…。
まーくんはどうしてプールに通い始めたのかというほど水をたいそう怖がっていた。結局あの後も足がつかないところへ行くとすぐにぐずりだして、宥めるのに随分苦労したものだ。
まーくん、もとい政宗くんと再会してからもう三ヶ月も過ぎた。あの大会は瀬戸内が例年通り優勝して、が貢献したのも微々たるものだった。政宗くんはあれから一度だけ米沢に来てくれたらしいが、残念ながらその日はわたしがいなかったので会わずじまい。少しがっかりした。幼馴染があれだけかっこよく成長しているのを見て、胸をときめかない者はいないだろう。機会があったらまた仲良くなりたいと思っていたのに…神様はいじわるらしい。今日こそ会えるといいなあ、とのろのろ米沢へ行く支度をし始めた。
高校へ上がってもは今まで習っていたスイミングスクールへ通い続けている。越後水泳部でもそういうものは少なくない。なによりそこのコーチからツテで高額バイトを紹介してもらえるメリットもあった。ちょっと遠出して、交通費も出してもらえて、ストップウォッチを測ったり、子供たちの監視員を務めたりするだけで一日二万くらい稼げる。今日はコーチからその呼び出しを貰って米沢へ行くところだった。
「あ、織田コーチ!」
「か」
ジャージ姿の織田コーチは受付にいた。相変わらず怖い顔だ。でも中身は意外に優しい面もあるから生徒たちには慕われているらしい。もっともこの人は泳ぎが米沢で一番うまいと言われているから、尊敬の的になるのも頷ける。
「今週の日曜に天王山の方まで行き、監視員のバイトをやって来い」
「是非もなし!」
「…人の口癖を真似るでない」
ばしんとメニュー表の板で頭叩かれて、は脳細胞が死んだと喚くが織田はそのまま無視して話を進めた。
「そういえば伊達の小童も先日尋ねてきたから同じものを紹介した」
「……え?」
「呆けた顔よな、二度は言わぬ」
そのまま颯爽と織田コーチはプールの方へ消えていった。え?え?言われたことを頭で反芻してようやく意味を悟る。政宗くんも一緒に来てくれるってこと!?願っていたことのやや斜め上を行ったが、これはこれでじっくり話す機会になるんじゃないか。嬉しさに建物の外へ出た瞬間、親友の番号をかけた。
『?どうした』
突然かけられたことに驚いたように電話の向こうでかすがが尋ねる。にこにことした顔を隠しもせずにそのまま話を続けた。
「えへへ嬉しいご報告を分かち合ってもらいたいとお電話しました!」
『下らんのろけ話なら聞かないぞ』
「あっそんなこと言っていいのかな?もう謙信先生のところへ一緒に言ってあげない」
『何があった、詳しく話してみろ』
「愛してるかすがちゃん!」
十二月の肌寒さに震えながらもそれは傍目から見ても幸せそうにはかすがと電話をした。かすがも面倒くさいと言いつつもちゃんと聞いてくれる。いい友達を持った、心底そう思いながら帰路に着いたのだった。
(100227)