相容れない仲
塩素のにおいが好きって言うと、必ず友人は顔を顰める。けれどやっぱり嗅ぐとプールへの羨望感が溢れる。今すぐ服を脱いで泳ぎたくなるのだ。もっとも今日はお預け状態なのだが…。その代りわたしは大会で泳ぐよりも彼と話すことに緊張していた。何せ会うのはこないだのことを除いて小学生以来、緊張するなという方が無理だ。
「がまさか越後高校とはな、いやそれよりもあそこで会った方が驚いた」
「まさかって。どういう意味よ」
「だってお前小学生のときテストで…」
「いい、それ以上言わなくて結構です。意地悪な政宗くんが言わんとしていることは十分分かりました」
「拗ねるなよ、変わってないなそういうところ」
くしゃり、男性の手だけれどそれはほっそりと色白くて、女のわたしですら羨むような綺麗な手で髪を撫ぜる。自然と微笑んだ政宗くんの笑顔が余りにも眩しくてそっと俯くと、わりぃ、小さく謝られた。
「あ、ううん…別に」
「そうか?よかった、また拗ねたかと思ったぜ」
「……」
「無言で睨むなって」
まるっきり子供扱いである。少し面白くない、いやすごく面白くない。こっちは成長した幼馴染に少なからずときめいているのに…この差はなんだ。
肩すかしをくらったような気分で、プールを駆け回る子供たちに注意をする。一生懸命男の子はバタフライに挑戦したり、得意になって泳ぐませた女の子、非常に微笑ましい。その中でこちらをじいっと見てくる男の子たちがいた。なあに?出来るだけ優しい声で尋ねると、勇ましい男の子が単刀直入に切り出す。
「なあなあ、二人は恋人なのか?」
「…っ!?」
しかも政宗くんにも絶対に届いていそうなほど大きな声で言うもんだから、は泣きたくなった。子供って本当にどうしていい意味でも悪い意味でも素直なのかしら。
「あ、あのね、あっちのお兄さんとわたしは別にそういう仲じゃなくて」
「そうですよ蘭丸。お姉さんを困らせるなんていけませんねえ…」
「あっ現われたな変態光秀!!」
突然聞こえてきた優しげな男性の声にぎょっとする。すらりと細身の男性は政宗くんにも劣らず美形だった。想定外の第三者にわたしは目を白黒させるばかり。蘭丸と呼ばれた男の子は持っていたビートバンでばしばしと一切遠慮なく光秀さんを叩く。とはいえ全力でも所詮は小学生の力なのでまったくダメージはなさそうだ。
「ビートバンは叩くものじゃありませんよ。そんなことも分からないんですか」
「うるさいっ、光秀のくせに!」
「おやおや図星をつかれて反論の言葉も見つからないようですね」
一見優しそうに見えるが、一言、いや二言くらい余計だ。敢えて人の神経を逆なでするような言葉を選んでいるような気がしないでもないが。
「よォ、なんであんたがいるんだ」
「政宗じゃありませんか」
「…あんたに名前を呼ばれるとぞっとする」
「他にどう呼べとおっしゃるんですか?」
どうやら二人は知り合いらしい。会話からしてもちろん親しいわけではなさそうだが。
政宗くんはまだ怒ってビートバンを握りしめている蘭丸くんを宥めて、プールに送り出す。それからプールサイドに設けられている椅子に座ってとりあえず話を聞くことにした。
「そちらのお嬢さんとは初めてですね。わたし瀬戸内高校一年の明智光秀と申します」
「初めまして、…一年生?」
「はい、年上に見えましたか。よく言われるんです」
「老け顔だからな」
「その理論でいくと貴方も当てはまると思いますよ」
にっこりと毒を吐いていく光秀さんと不機嫌さをまったく隠さない政宗くんはまさに一触即発だった。慌ててわたしは気を逸らそうと話を続ける。
「わたしは越後高校一年のです、よろしくお願いしますね光秀さん」
「ええ、素敵なお嬢さんと仲良くなれて嬉しいです。同い年なのですから、どうぞ光秀とお呼びください」
女子高なのでクラスメートはもといこんなに丁寧な物腰の同い年である男性とは会ったことがないのでわたしは素直に面白い人だな、という感想を持った。差し伸べられた握手を受け取ろうとした時、政宗くんがわたしの手首をぎゅうと握ってそれを遮る。
さっきよりも不機嫌な顔で、眉間には皺が寄っていた。しかしわたしにとってもはやそれはどうでもいいことで…政宗くんに手首ではあるが握られていることにどぎまぎしていた。
「…貴方にもそういう人がいたとは驚きですよ。てっきり一匹狼タイプかと思っていましたが」
「前から思っていたんだが、お前は気に入らねえ」
「奇遇ですね。わたしもです」
やれやれと首を振って光秀は立ちあがった。政宗くんに握られていた手とは逆の手を取って―政宗くんはますます嫌そうな顔をした―紳士のように優しく握られる。
「よかったらまた天王山に来てください。わたしはここのOBみたいなものなので、いつでもいますから」
「行ってやることないぞ、」
「…政宗くん」
約束の時間が来て、わたしは最後まで敬語を解かない光秀と別れの挨拶をしてスクールを後にする。ぐいぐいと政宗くんは力強く手首を握って引っ張るものだから、さすがに痛いと訴えた。
「いいか、ああいう男こそ腹の中じゃよからぬことを企んでいるんだ。もうここに来るんじゃねえぞ」
「はいはい」
「はいは一回でいいんだ」
「はーい」
手首じゃなくてちゃんと手と手を握り合わせて、わたしは政宗くんの隣を歩く。景色は違えど昔こうして帰ったのを思い出した。道路に伸びる影が如実に身長の差を表している。男の子っていつの間にか大きくなっちゃうんだな…寂しいような、逞しいような、複雑な気持ちで夕日を眺めた。
(100320)