ああ、困った。困った、困った。
ずきずきと痛む足を眺めてため息をついた。父に頼まれて薬草を摘みに山へ行ったものの、うっかり崖で足を滑り落ちてしまった。情けない。
昨日の雨は特にひどかったから、細道はひどくぬかるんでいた。これでも歩くとき注意はしていたのだけれど。そういえばここのところ天気は悪い。雷様が怒っているかのよう。今日だって曇り空で今にも雨が降りそうだ。
「…あ」
ぽつぽつ、ほら、やっぱり降り出した。挫いた足のせいで立ち上がることもままならない。どうしてこうわたしいはついていないの。誰か心配して探しに来てくれることを祈るしかなかった。
「どうかしたのか」
「ひっ」
後ろからふいに声をかけられて小さな悲鳴を上げてしまう。振り返ると不審鋭い隻眼がわたしを見下ろしていた。この薄暗い森の中で男は絵から出てきたようにくっきりと見える。神々しい、という言葉がまさに相応しいだろう。
わたしはその美しさについ見とれてしまった。ひと目惚れと言ってもいい。
「…足を挫いているみてえだな」
赤く腫れた足首に目を咎めた男はしゃがみこみ、そっと触れる。少しだけ痛みが和らいだ気がした。
「村はどこにある」
「……」
「なんだ?唖(おし)か」
「す、すぐ下の、む、村です」
わたしの緊張が相手に伝わったのだろう。小さく笑って男はわたしを背負ってくれた。男の背からは温かみなどなく、むしろ冷気のようなものを感じたけれど、熱を持ったわたしにはそれがひどく心地よかった。
山の麓までわたしはその男と話をした。男は政宗というらしい。
「へえ、じゃあおまえはいずれ親父さんの跡を継いで巫女になるってことか」
「それが父の願いでもあるので」
「…お袋さんは?」
「八年前に亡くなりました」
「そいつァ、悪いことを聞いたな」
「いいえ。子が言うのもなんですが母も立派な方でした。…だから妖怪と戦って命を落としたと聞いたときは、信じられなかったものです」
「…八年前に妖怪と、ね」
「政宗さん?」
「いや、なんでもねえ。着いたぜ」
この一本道を歩けばもう家に着く。その頃にはすっかり足の痛みも引いていた。驚異的な回復の早さと言っていい。わたしは心のそこから政宗にお礼を言った。すると少しだけ憂いを帯びた表情で政宗は、
「おまえが俺に礼を言う必要はないさ」
とだけ言って山の中へ消えていった。わたしはそこで初めて疑問を持った。なぜ彼は再び山へと向かうのだろう。もう日も暮れかけている時間帯だ。山に住んでいるのかしら。
歩くたびに段々わたしは稀有な体験をしたのではないかと思えてくる。あそこで出会ったことも、回復力の速さも、彼が到底人とは思えぬことを裏付けるようなことばかりだった。
わたしはその疑問を父に話してみると、父はさっと顔色を変えた。
「男は隻眼だったのか?それは間違いないのか?」
「はい、何か…」
「そいつは母さんを殺した妖怪だ」
「え?」
「こうしては居られん。村の衆を集めねば」
事態は思わぬ方向へ動いた。わたしはわけが分からないままに父へ付き従う。胸は不安でいっぱいだった。親切にしてくださった政宗さんが母さんを殺した妖怪?そんな、嘘でしょう?状況が未だにうまく呑め込めなくてひたすらにわたしは黙って考えていた。
あれよあれよという間に若いものから老練なものまで男が手に手に武器をかかえて集まった。そうして明かりを灯し、山へと向かっていく。
だがその集団に男が立ちふさがった。それは紛れもなくさきほど見(まみ)えた政宗だった。どうして隠れていてくれないの。それともわたしたちも殺しに来たの?おそらくわたしの目は、政宗に咎めているようにしか見えなかっただろう。
「何をしている、構えろ!そいつは母の仇だぞ!」
父に叱咤されて、ハッとなり、弓に手をかけた。どこか寂しそうな政宗と目が合う。手がかつてないほどに震えた。これは夢だ。夢に違いない。これは夢、これは夢、これは夢。
「どうした、撃て!」
その声の大きさに気圧されて、右の手から矢は放たれた。吸い込まれるようにして、矢はまっすぐに政宗の心の臓目掛けて飛ぶ。そのときピカッと雷が辺りを照らした。その光の中へ解けていきそうなほど政宗はおぼろげに見えた。わたしはただただ呆けて彼を見る。
政宗は優しく笑っていた。
人間様に抗おうて
(100612) for.妖雲
参加させていただきありがとうございました。
とても楽しく書かせていただきました!お題に沿えていればよいのですが。