天と地の差
「風呂上がったぞー」
髪をタオルで乾かしながら、祖父の浴衣を拝借した政宗がそこには立っていた。半信半疑だったが、夜は本当に大人の姿になるらしい。まさにそのまま羽織ってきた状態の浴衣姿なので、襟から素肌がちらりと見える。あの紋様は刺青のように彼の体に居座っていた。無意識とはいえあれを施したのは自分なのか、そう思うと不思議な気持ちになる。例えて言うなら猛犬に首輪でもつけた気分だ。
表面にはまったく傷の跡はないけれど、あれは相当深かった。根幹的に治すのに時間がかかるのだろう。もしかしたらそぶりは見せないが今も痛みと戦っているのかもしれない。少しだけ竜に同情してやった。
「おい、聞いてるのか。お前のそういう考えに耽る癖、どうにかしたほうがいいぜ」
「余計なお世話よ」
読んでいた雑誌を閉じて政宗の横を、わざと彼にぶつかって廊下に出た。後ろから文句を言う声が聞こえたけれど気にしない。
体も髪も洗い終わって湯船につかる時間はまさに至福だ。くぐもった視界、静寂な世界、どれも心身ともにわたしを癒してくれるもの。
ここ数日間でいろいろなことがあった。竜という未知の生物と遭遇、その竜はわたしを拒絶しておきながら今日こうして居座っている。昔から妖怪や神といった類に縁があるらしい。
その都度わたしは無意識に妖怪を払っていた。さすがに神と出会ったのは今回が初めてだ。まず最初はただの竜(ただというには気が引ける)だと思っていたから、なおさら驚いた。
あの竜は、いったいどうして地上に堕ちたのか。実はずっとそれだけが気になっている。ただどうにも質問する機会を逸していた。なによりあの竜がそう簡単に話してくれるとは思えない。素行は悪いが、害を与える存在というわけでもなさそう。それだけに彼は誰によって毒を盛られ、切りつけられたのかが気になる。神同士にもいさかい事があるのかもしれない。
やはり、聞いてみようかしら。決意して湯船の淵に手をついて上がったときだ、ぐらりと視界が揺れた。異様に体が熱い。おまけに気持ち悪い。
ぐるぐるぐるぐる
は足を滑らせた。体が床に叩きつけられた音が浴室に響く。これは相当うるさかったはずだ。現にすぐ足音が近づいてきた。
「おいっ、どうかしたのか」
なんだ政宗か。扉の向こうにある人影をぼんやりと眺め、そこでの意識は途切れた。
体が涼しい。心地よい風が吹いてくる。すべすべした肌触りの手が頬を撫でた。意識が浮上してくる。ゆっくりと目を開けると、天井と、心配げにこちらを見る男がいた。安心したように顔を綻ばせて、すぐに仏頂面に戻る。百面相が上手いやつ。ついにやにやしたのが政宗にばれたらしい。
「な、なんだよ、気持ちわりィ」
「べっつに〜。それより、またわたし倒れたみたいね」
「またってことはよくあるみてぇだな。だから言っただろ、その空想壁を直せ」
「ちょっと…、空想って決め付けないでくれない?」
「おっと失礼。妄想の間違いか」
ああいえばこういう。これ以上は無駄だと決め付けて、わたしはそのまま横向きになった。幸い運ばれたのがベッドらしい。このまま寝るのもありだ。そこで嫌な予感がした。
「…もしかしてあなたがここに運んでくれたの」
「あ?ああ。礼なら言えよ」
「……見た?」
「何を」
「………わたしの裸」
そう言うと、思い出したらしい。愉快そうににやっと口元を歪めた。それですべてを悟り、は声にならない声を上げて枕に顔を突っ伏した。向こうは女の体に見慣れているとはいえ、こちらに免疫はまったくない。会って間もない男(とはいえ神だ)に裸体を晒してしまったとは!うう…年頃の娘にとってはあまりにも恥ずかしい。
「まあ、気にするなよ。こちとら見慣れてる」
案の定予想内の答えが返ってきた。
「もういい…電気消して。寝る」
「神を顎で使うとはいい度胸してるな」
そういいつつも動く気配がした。パチッと音を立てて室内の電気が消える。このままふて寝してしまおう。
ところが再びベッドのスプリングは悲鳴を上げた。
「…?」
不審げに視線を後ろに向けると、顔は見えないが政宗も隣に寝ようとしている。え、なんで、ここで寝る気か!?慌てては跳ね起きた。それに政宗の方が驚いて、動きを止める。
「政宗、寝るなら客間があるでしょ!」
「はあ?なんで俺が一人で寝なきゃいけねーんだ」
え、それこそ、はあ?なんですけど。意味が分からなくて目を擦る。ダメだ、表情が伺えない。声色からしてからかっているわけではないらしい。すると何か。この男はいつも誰かとともに寝るのが習慣だとでもいうのか。問えば当たり前だろ、と返ってきた。
「俺くらいの男となると女を侍らして寝るのが常だ」
「さ、最低!不潔!女性の敵!!」
「なんだ?人間でも地位や権力の高い男はそうするのがいるだろうが」
いつの時代の話だ。確かに戦国時代や江戸時代ならありそうだが。こいつ四百年前から体内時計でも止まっているのかしら。常識の開きがありすぎて愕然としてしまう。
「Am I wrong something?」
「あ、当たり前じゃない!一夫一妻制、かつ男女平等のご時勢にそんなこと…だいたいその行為事態が人としてどうかと思うわ」
「俺は神だけどな。別に俺が頼んでやったわけじゃねぇ」
「どういう…?」
「寝ようとしたら女がいつもそこにいるだけだ」
それってどういう状況だろう。首を捻る。つまりは寝室に夜行くと必ず女が用意されているってことだ。その用意する人って、多分伊達家の家臣に違いない。それじゃあその意図は?
頭の中で計算されていき、ひとつの結論に至った。
「あなたまだ結婚してないでしょ」
「…It is so. 」
それがどうかしたのかという顔をしていた。大分闇の暗さに慣れてきたらしい。
つまりは、家臣の願いはこの男に身を固めて欲しいというわけではないだろうか。だからそれに見合う女を用意する。ところが政宗はただ女とともに過ごすだけで何ら感情を抱かない。また次の女を捜す。…嫌な無限ループだ。それが何百年も前からだとしたらわたしは軽くぞっとしてしまう。
「ともかく寝るぞ」
「待った!わたしは了解していない」
「別におまえの母親でもいいが」
「…撤回します。どうぞ横になってください」
「そうか、すまねぇな」
わたしが受け入れると分かってて言ったらしい。すまないなんてこれっぽっちも思っていないに違いない。わたしはなるべく壁側に寄り、政宗に背を向けて寝たのだった。
(100708)