逃した魚を追いかけて
既に更衣室の鍵も開いていた。それはそうだろう、いつもよりひとつ電車が遅いのだ。のろのろとただっぴろい部屋で水着に着替えて、その上にジャージを着る。それからプールサイドにある管理室に上がった。夏らしい曲がかけてクーラーで涼み寝そべる猿飛がそこにいた。
「今日いつもより遅いね?」
「ちょっといろいろありまして」
寝坊ではないよと言うと、なんだと返された。なんだとはなんだ、こっちは大変な思いをしてここまで来たというのに。そうだこれを部長である伊達に直訴すれば午前練習を免除してくれるかもしれない!と、途端には嬉しそうな顔をすると後ろの猿飛がむくりと起き上がった。
「いろいろってなーに?」
「聞きたい?」
「…そろそろ俺様練習に行こうかな」
「やだ、聞いてください猿飛様!」
立ち上がろうとした猿飛の肩を押して、隣に座る。緩む頬が抑えられない。そんな様子に若干佐助は引き気味であったがちゃんと話は聞いてくれた。そういうところが猿飛のいいところだ。しかし痴漢に運悪くあったけれど素敵な男の子が助けてくれたというその美談を次の瞬間ハッと鼻で笑った。
「ちゃんのお馬鹿さん」
「な、なにおー!」
「そういうときは相手の名前を聞いておくのが定番でしょ?あーあ、せっかくのチャンスを逃しちゃって」
「!!!」
言われてみればそうだ。どうしてあの時名前を聞いておかなかったんだろう。動揺していてすっかり失念していた。一気に落ち込みうなだれる。そんな様子を猿飛は横目に、今度こそ立ちあがって伸びをする。
「ほら、ストレッチしてあげるから。そろそろ練習しないとこわーい部長が怒鳴り出すよ」
その言葉で我に帰る。そうだ、ただでさえ遅刻してきたのにこれ以上遅れると怒られる。ただ怒られるだけらないいのだが彼の場合メニューを増やすという横暴に出る。もしくはサークルのタイムを縮めるという鬼畜ぶり、それだけは避けたい。
「あ、これちゃんのメニューだって伊達の旦那が」
「……もう遅いじゃない!!」
25メートルフリーを100本と綺麗な字で書かれたメニューの横に、今日はみっちり指導すると書かれていて死にそうになる。猿飛のストレッチに身をまかせながら本気で帰ろうかなと考えるであった。
そういえば、あの男の子の制服…どこかで見たことがあるような気がする。
(090707)
フリー(Fr)⇒クロールを指す
サークル⇒泳ぎ一本のタイムを制限するもの