―――ふ、と瞼を持ち上げる。
辺りは喧騒と人人人、観光客の賑わいを見せていた。手の中にあるそれは夕日を石に宿している。反射した光の眩さが大粒の涙に似ていて、感傷的になった。無機物の冷たさが今は心地よい。

「慶ちゃん…」

これでいいと自分に言い聞かせる。たった一日の幻を彼は白昼夢と捉えるだろう。
結局一度も呼ぶことはなく、正しい名前も知らぬまま別れてしまった。後悔先に立たずとはよく言ったもので、せめてもの思い出にと簪を手元に置こうと考える。

「これ、頂戴!!」

ところが風のように大きな手がそれを掻っ攫ってしまった。あんまりにも不意だったので、状況が飲み込めずに目をぱちくりとさせる。大丈夫、とでも言うように彼は、慶ちゃんはウインクを投げた。

(え……?)

思わず凝視してしまう。間違いなく先ほど時代に置いていった男がそこに平然と立っていた。姿成りはいかにも現代だが、顔と奇抜さは衰えていない。幽霊か白昼夢か、腰が引けそうになったところで誰かが腕を引っ張った。

「ちょっと!興味なさそうにしていたのに、どういう関係なのよ」

彼女たちは興奮気味に迫る。言われた意味が分からずに首を傾げた。後方の方で、彼を呼ぶ男の子たちの声がする。そういえばこの人たち、彼女たちがきゃあきゃあと叫んでいた他校の男子では…?

「わりぃ、この子貸してくんねえ?」
「はい!!」

買い終えた慶ちゃんはわたしの腕をぎゅうと痛いほどに掴んで、可愛くおねだりする。即答された返事に満足して、ぐいぐいと路地裏まで引っ張られた。

「ね、ねえ、どうして」

問いかけを遮って慶ちゃんは簪を器用にわたしの髪に刺した。そしてとびっきりの笑顔を見せる。

「うん。やっぱり似合ってる」
「……」
「…ごめんな、アンタに会ったら何を言おうかずっと考えていたのに、全部吹っ飛んじゃってさ」

照れ隠しをするように彼は頭を掻いた。とんとんと生み出される言葉を遮っては悪いとわたしは口を紡ぐ。わたしよりも彼の方がずっとずっと言いたいことが多そうだった。

「アンタが消えて、呼び止めようと思ったのに、俺はアンタの名前すら知らなくて…あの時は途方にくれたよ。しばらく探したけど神隠しのように会わずじまいでさ。でもアンタの服が残っていたから夢じゃないことだけは分かった。また会いたくて、言いたいことがあって、ここまで会いに来ちまったよ」

すう、と深く彼は息を吸う。それから押しつぶされるくらいの勢いで抱きしめられた。

「"ごめん"じゃなくて"ありがとう"だろ」
「…それだけのために?」
「いーや、まだある、名前!」

今度は急に隙間が開いた。真剣なくらいにわたしの手を握って、まるでプロポーズをするように言うのだ。

「俺は前田慶次っていうんだ。お嬢さん、アンタは?」

小さな飛行機は何倍にも大きくなって、簡単にツミキを壊してしまう。彼はいつだってそうだった、敷居を簡単に跨いでいく。壁を作り上げようとしていたのはわたしの方だ。
何年も何十年も何百年もかかっただろうに、彼はその執念だけでここまで来た。

「わたしの名前は、    」
















 

 

 
う 



(110223)