「なに…?敵陣から文だと」
怪訝な目つきで司馬師は報告してきた兵を見据える。貸せ、と乱暴に取り上げた文には、確かにいま五丈原で対峙している諸葛亮の署名があった。再三父、司馬懿に出撃を促す挑発文をやっていたのは知っていたが、まさか我が陣にも…?と司馬師は検討を付けて読み始める。
「兄上、いったい何が書かれているのです」
「昭……せかすな。待て、これは…」
みるみる司馬師の目つきが変わっていった。普段冷静沈着な兄を驚かせるものは果たして何なのだろうと、司馬昭は興味深げに覗こうと試みる。しかしその時、再び伝令と思わしき兵が駆け込んで来た。
「諸葛亮陣中にて死す、とのこと!司馬懿様より、出撃要請が出ております」
「ま、まじかよ!めんどくせ〜」
「すぐに陣触れを出せ。隊をふたつに分ける。昭は父上の後詰だ。私は渭水東砦に迂回した後に合流する」
「えっ……兄上!?」
司馬懿の星占によって諸葛亮の命が後残り幾ばくか、ということまで魏軍側はとうに知っていた。しかし、いざその報がもたらされて驚いている司馬昭に比べて司馬師は異常すぎるくらいに落ち着きを払っている。先ほどまでの取り乱しようが嘘のようだ。
さては、諸葛亮の文に……と司馬昭は見たが、これ以上詮索している暇はなかった。すぐさま自身の隊をまとめて出陣の支度を整える。その間、司馬師はひっそりと渭水へ軍馬を走らせていた。
諸葛亮からの文には、いつ死が訪れるか、その時に蜀軍はどう撤退するか。とても敵軍総大将の身内に知らせる内容とは思えない詳細が書いてあった。一瞬司馬師も策の多い諸葛亮の罠かと思ったが、彼の願いから虚偽ではないことが知れた。その時点で司馬懿に進言し、蜀を叩けばよかったのだ。頭ではそう分かっているのに、司馬師は馬鹿正直に彼の願いを聞き届けるために、指定された渭水へ向かっている。
"貴方なら託せると見込んでの願いです"
敵将である諸葛亮対しての賞賛と、武将としてその信頼に応えるために、おそらく司馬師は心動かされた。父上や昭が聞けば、らしくないと一笑するだろう。司馬師はそう考え、自分でも可笑しくなった。
しかし今更馬を帰すこともただの徒労だ。果たして渭水東砦には少数の蜀軍がいた。守られるようにして、おおよそ戦場には似つかわしくない可憐な女性が佇んでいる。
「貴様が、諸葛亮の娘か」
「……はい、と申します。貴方様が司馬師殿ですね?」
諸葛亮が死に際に何を思ったのか。それを慮る事など時間の無駄と司馬師は切り捨てるが、少なくとも娘の将来をよほど憂いたことはまず間違いない。蜀の未来性と、魏の将来性を天秤にかけた苦渋の選択だったろう。
"娘を娶ってはいただけませんか"
半分は武将としての仁義、半分は……単純な好奇心。馬上からと名乗った娘を見下ろす。
「子元でよい」
「受け入れていただき、ありがとうございます子元殿」
「…生憎引き返す余裕がない、このまま蜀の追撃に移るが」
「覚悟は出来ております。これより司馬家の為、微力ながら尽くす所存です」
はにこりと微笑んで、背後にいた兵から太刀を受け取った。なかなかどうして、肝の据わった娘である。駄々を捏ねるどころか、加勢するとの申し出に司馬師も自然口角が上がった。
「よかろう、ついてこい。」
「どこまでもお供いたします、子元殿」
(120504)