「今、いま何て言ったの?」
「ですから寝返るには頃合いかと」
しれっとして述べた男に一種の恐怖すら感じた。羽扇の向こう側に見える端正な顔を初めてここまでまじまじと見る。正気か、この男は。疑いを滲ませた視線に気づいたのか、それが当然ととったのかは分からないが、男は、孔明はふっと笑みを浮かべた。
「あなたさまはご自分の器を分かっていらっしゃらない。あなたなら、この混乱に乗じて天下を治める器がございます」
「…何を馬鹿な、わたしは殿を裏切るつもりなど毛頭ない」
「さりとてこれを如何します?」
孔明が懐から竹間を広げる。いぶかしげにそれを手に取り、眺め、そして愕然とした。手が自然と震えるのを抑えられない。
つらつらとそこには殿に対して挑戦状としか思えない文書だった。わたしの筆跡によく似せてある。背中に嫌な冷や汗が流れた。
「これは…いったい…?」
「同じものを既に殿の使者に手渡してあります」
「孔明!あなた!」
「諦めなさい。あなたのように才のある者が、あのような匹夫の勇とも言える男と共に死んでやる必要はないのです。いずれにせよ間に合いません。もう使者も送り返してしまいました」
へたりと床に尻をついた。竹簡を食い入るように見つめる。
わたしは殿からこの地の統治を任せられていた。そして殿はいま新たな脅威に晒されて、非常に危険な状態だと使者が昨日知らせに参ったことに、わたしは今こそ恩に報いるときだと、そう思ったのに…!それをこの孔明は、使者に対して無礼極まりない返事をしてしまった。
「…世間はわたしを温情のない者と謗るわ」
「いいえ、あなたさまを迎えることに民は咽び泣くでしょう。気づかないはずはございません。殿の政事(まつりごと)を近くで見ていたあなたなのですから」
確かに恩あるとはいえ、殿は傍目から見ても無慈悲としか言いようのない政治を敷いていた。身内しか信じなさらない殿はわたしをも疑い、この地へ遠ざけた。その事実に気づかないわたしではなかったが、それでも、それでもわたしは殿に救われたことに感謝していたのだ。
「あなたさまのお気持ちは痛いほど分かります。けれども、民が悪政に苦しむ姿を黙って見ていることが出来ますか?このまま乱世に埋もれてしまうのですか?違うでしょう、その才を使わずして天がお許しになるはずもありません。あなたはわたしを張良と評してくださいました。でしたらあなたさまはわたしの沛公です、主です、君主です。幸いなことにあなたさまには徳がございます。どうか民のためにもこの孔明のためにも立ちあがってください」
かつて井戸の底から発見された玉璽(ぎょくじ)を孔明は跪いて差し出す。それは暗にわたしが皇帝と称し、天下を統一するように建策していることに他ならなかった。わたしが、皇帝?身に余るほど恐れ多いという気持ちがある一方でその誘いに胸が高鳴った。
孔明のことを贔屓目に見てもかつてこれほど優秀な臣がいただろうか、それほど賢い男だった。その男に認められ、あなたなら天下を取れると太鼓判まで押されている。
「…分かりました」
自分でも吃驚するほど震えた声が出た。それは弱い心から来るものではない、感極まった震えだ。輝くばかりの、皇帝のみが所有を許された玉璽を手に取る。
「民の願いが平穏を求めるならば、曹操なんぞいかほどのものか」
「それでこそ我が主です」
にっこりと孔明は微笑む。わたしは覚悟を決めて、檄を飛ばした。まずは優秀な人材を登用し、辺境とはいえ肥沃なこの土地で善政を施し、孔明が立てる大掛かりな戦の準備をせねばなるまい。
わたしが曹操に敵うか多少の不安はあるもののそれはどうせ杞憂に終わるだろう。なぜなら張良をも超えた才の持つ孔明という男がわたしの傍らには常にいるのだから。
「孔明、」
「なんでしょう」
「わたしは立派な主君になるよ」
「楽しみにしています」
(100225)
あれ…夢…?殿は別に劉備ではありません。たぶん殿はモブじゃないかな(適当)。サンムソ5エンパをやっていて配下の孔明に独立しないかと誘われた衝撃に任せて打ちました。まさか…孔明が主の孫堅を裏切ろうと言ってくるとは夢にも思わなくて…意外と腹黒いんですね。