困ったことになった、とは文机に置かれた竹簡に頭を悩ませる。この北伐の最中に敵軍から密通書が送られてきたのだ。故郷が同じ誼で名前も初めて聞いた男が、内応の願いを綿々と書き綴っている。
もちろんに裏切りの意志はない。師である孔明、兄弟子である伯約と共に蜀の悲願を叶えんがため、魏を滅ぼす決意を固めている。ただそれは忠義心から来るものではなく、なんと言えばよいだろう、自然な成り行きからだった。
とにかくただでさえ心労の多い孔明様を煩わせるわけにもいかない。これはこっそりと処分してしまおう。そう思って引き出しの奥にこっそりと隠し、明日の行軍に備えては深く眠りに落ちた。


「……懲りないこと」

明くる日の夜、催促するかのように再び竹簡が手元に届けられた。疲れきった体で斜め読みに一応は目を通す。
ところがそれは以前とは違い、あまりにもこちらの心理をついたような内容だった。筆跡は見たところ同じだがおそらく誰か別の者の助言に違いない。
諸葛孔明はもう長くないこと、蜀には次代への人材が枯渇していること、このままではわたしの立身も危うくなること。それらを踏まえて上手く魏へ寝返るように誘っている。あたかも親切から述べ、かつ我が一族の領地安堵まで保証されているときた。
客観的に見てそれはあまりのも的を射ていた。は内心、今まで抱えてきた不安を見抜かれたような思いすらある。

(馬鹿らしい)

しかしその甘い誘惑を振り切っては竹簡を投げ捨てた。そのまま簡易寝台の上に横たわる。文官には今日のような雨の行軍は非常に疲れた。衣装は水を含み、足取りは重たく、地面の状態も悪い。明日は晴れるとよいのだが。そのまま眠りに入ろうとしたときだ。

、いるか?」
「……伯約…」

簡素な夜営の天幕に男性の影が映る。どうしたのだろう、こんな夜更けに。どうぞという意味を込めて名前を呼べば、彼は失礼すると丁寧に挨拶して入ってきた。

「何か問題でも起きた?」
「いや、まだ明かりがついていたからどうしたのかと心配になってな」

散乱した竹簡や衣服に苦笑しながら伯約は視線を落とす。ありがとう、と返すはずがわたしは彼が見ているものに気づいて瞬時に青ざめた。

「これは…?」
「あ、ああ、魏の密通書が届いて、」
「…まさか、これに応える気じゃないだろう?」
「当たり前でしょう。ただ孔明様に伝えてこれ以上悩ませることもないだろうと思って、密かに処分しようと思っていたの」
「せめて私には教えておいてくれてもいいと思うが…」
「ごめんなさい、そこまで気が回らなかったわ」
「やはり君は疲れているんだ。これは私が処分しておこう。もうお休み」

伯約は竹簡を拾い上げて、踵を返した。そのまま出て行くところで、思い出したかのように足を止める。

「それにしてもよかった。と戦場で敵対することになったら、私は君を討たねばならないところだった」

冷たく底冷えするような瞳にギクリとした。裏切るつもりはなかったにせよ、揺らいでいた心を咎めるような物言いには焦る。しかしそれはおくびにも出さずに「あら怖いこと」と笑顔を貼り付けた。

「私は本気だよ」

伯約もにこりと笑う。その表情が恐ろしくて、しばらくは離れられそうにもないとはまた苦悩するのだった。


(110802)
ヤンデレきょいたん
この話は伏線みたいなものなので、全然夢じゃないですごめんなさい