「…嘘よ」
呆然としてわたしは立ち竦んだ。視界に映るものはすべて真っ白に染め上げられている。白、シロ、しろ。もともと肌白い元就様の顔(かんばせ)も嫌気が差すほどだった。
孫子、呉子、六韜、おまけに三国志を愛用していた彼らしいことだ。日本において喪服は黒と決まっているのに、白とは恐れ入る。今すぐにでもこの忌々しいすべての白を取り払ってしまいたかった。
震える足を叱咤して棺に駆け寄る。奥方様、と家臣が呼ばう声がしたが今のわたしには至極どうでもいいことだった。
ツンと目が熱くなる。この馬鹿のためにどうしてわたしが涙を流さなければならないのだろう。
「…元就様、織田が来ます。安芸の地が、元就様の勝ち得た領地が、逆賊に暴かれても構わぬとおっしゃるのですか」
毛利家は存亡をかけていま織田と交戦中だった。元就様はいつも通りに「勝てるよう努力するよ」と、一国の主にしては頼りないお言葉を言って発たれた。それでもわたしは何ら不安を抱かなかった。元就様の知略を、毛利家の力をもってすれば勝てぬ戦はないと確信していた。
それがどういうことか。伝令兵に寄って告げられたのは毛利家が水上戦で負け、かつ元就様が重症という悲惨な現実だった。肝を冷やして帰りを待てば、帰ってきたのは骸と化した姿。
「馬鹿じゃない、の」
常日頃、歴史家になりたいという元就様をわたしは嗜めていた。兵法を学ぶのはいいが、大丈夫たるものの目的は戦に勝つことでなければならぬ、と口をすっぱくして唱えた。だけどわたしはこんな結果を望んでいたわけではない。命を落としては何も成し遂げることさえできないではないか。
『知ってるかい?安芸武田氏との戦をね、向こうは西国の桶狭間と呼んでいるらしい』
『まあ、でしたら東国の有田中井手の戦いと言われるようになりませんと』
『ははっ…曹操と比肩するといってもいい日本古来稀にみる英雄殿に僕が勝てるかな』
『弱気なことをまたおっしゃらないでください。勝てるものも勝てなくなりますよ』
『…うん、ああいった独裁者が長くは持たないことを時代は証明している。皆の力を合わせばきっと織田氏を退けられるさ』
『微力ながらわたくしめも元就様のために厳島でご武運を祈ります』
『ありがとう。本当に君はよく出来た妻だ』
瀬戸内海を眺めて戦の前にわたしは久々に元就様と語らった情景が、ふと思い浮かんだ。ああいやだ。どうしてこう涙もろくなってしまったんだろう。それもこれも元就様のせいだわ。
心臓が止まっているとは思えないほど永遠に安らかな眠りに陥っている元就様の手をそっと握った。ぽつぽつと涙が白い服に濡れていく。
そこへ乱暴に葬式場へ入ってきた男がいた。血相を変えて声を張り上げる。
「織田軍の奇襲だ!」
途端に会場はどよめいた。ああ、あんまりだ。干渉に浸る間も織田は与えてくれぬらしい。葬式に奇襲とは噂どおり血も涙もない男だ。
元就様、元就様、どうしてお目覚めにならないのです。まだ血が通っているかのような頬に手を当てる。そっと優しく輪郭をなぞった。本当にまだ暖かくて…
「…ぷはっ」
「は?」
目が、点になった。元就様が息を吹き返した。いや、これは蘇生というには相応しくない。この男、死んだふりをしていたのだ。
「まったく。奥があまりにもずっと見ているものだから、隠れて呼吸がしにくかったじゃないか。死ぬかと思ったよ」
「…あな、た、!!」
「それと馬鹿なのはきみの方だ。常日頃俺は言っただろう、もっと歴史書を読むべきだと。偉大なる明の故人たちは偽りの葬式を装って敵の裏をかくことを教えてくれたからね」
開いた口が塞がらないとはこのこと。家臣の用意した鎧櫃(よろいびつ)をすぐさま着衣し、てきぱきと予知していたかのように指示を与えていく。
では…ではこれはすべて敵を欺くための芝居だったのだ。わたしだけそれを知らせてはもらえなかったのだ。元就様に一本取られた…!流した涙が馬鹿みたいに笑えてしまった。
「敵を騙すにはまず味方からって言うだろ?」
「まったく、度が過ぎます」
いつだってわたしはあなたさまに適いやしない。
(100614) ご冥福を祈りまして
title.馬鹿の生まれ変わり
西国の桶狭間と呼ばれ始めたのは後世でしょうがご了承ください。中国の喪服は白と言われたので引用してみました。が、江戸時代までは日本も白が主流だったようです。