荒んだ風が戦場を駆ける。
両軍は荘厳たる騎馬を揃えて対峙していた。曹操様の援軍を待つために我が軍は駐屯し、所謂時間稼ぎをしている。だがそれもいつまで持つか。何しろ相手は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と謳われる男だ。自軍の士気も呂布の武勇に怯え、長いこと脅威に晒されていたためにすっかりへっぴり腰だ。
「将軍、いかがなされますか」
曹操様に配属された副官が声をかけてくる。まったく度胸のない男だ。彼が縋りつくような目をしているのを敢えて無視をした。降伏することを願っているのだ。曹操様に中世を誓ったわたしだ、許されない。忠臣は二君に仕えずと言うではないか。
そろそろこの拮抗した現状にも倦んでいたところだ。わたしも、部下も、いままでよく敵の野次や挑発、罵倒に耐えてきた。もう構わないだろう。曹操様本隊もじきに着くと書簡も賜っている。その前に一戦交えて、敵の士気を下げておく必要もあるだろう。
「一戦交えよう」
「! しかし、まだ本隊が到着なされていません。その上無策で突っ込むなど…曹操が待てとおっしゃられた言葉をお忘れか」
「なんだ。貴様は呂布が怖いのか?臆病風に吹かれたのなら止めはせん」
「そう言われては出陣しないわけにはいきませんが、私は忠告いたしましたよ」
むっとして副官はそれきりだんまりを決め込んだ。彼の神経を逆撫でした所業には我ながら意地が悪いと分かっている。けれど、一角の武将ならば一度呂布相手に矛を交えたい気持ちもなくば、名も折れようというもの。
行くぞ。指揮を執り、呂布軍へ突き進む。副官の顔を立てておくためにも、陣は彼に布かせてやった。包み込むようにして呂布軍を押さえ込むと、何てことはない。すぐに潰走し始めた。肩透かしをくらった気分だ。気を取り直して、士気に任せ追撃戦を開始する。
「撫で斬りだ、曹操様に逆らう者を排除致せ」
下知を受けた兵士たちは我先に手柄を上げんと、敵将の首級目掛け突撃する。しかしここで何か違和感を覚えた。はて、相手はあの張遼であるが、肝心の呂布はどこだ?
胸騒ぎがする。ぞわりぞわりと全身の毛が逆立つような不安が襲う。まさか、これは罠ではないか。
「呂布だァァアアア!!!」
悲鳴にも似た兵士たちの声が響き渡った。追撃をしていた林から突如呂布軍精鋭隊と共に本命の呂布が現れたのだ。しまった、伏兵だ!武勇のみに頼ると聞き及びすっかり侮っていた。陳宮の仕業だろう。
伏兵に動揺し、そこへ呂布の追い討ちと来れば兵士たちは恐怖に飲まれてしまった。これではまずい。仕方なく撤退の命を下す。この敗戦では曹操様に顔向け出来ないと判断し、副官に任せてわたしは殿(しんがり)を務めた。兵の命を散らせておき、大将たる自分がおめおめと生き延びるわけにはいかない。腹を括り、呂布の首、ただそれだけを目指して敵陣へ突き進む。
愛馬の小騅(しょうすい)は嘶き、勇敢にも兵士を踏み倒して進む。
「貴様…、ここは通さぬ!」
「退け」
立ちふさがった男は高順だろう、こいつも一筋縄ではいかない相手だ。もちろん勝つ自身はあるが今はそれに時間を割いている場合ではない。足を狙い、馬から突き落としてやる。
そうして走り抜けた先に呂布はいた。黒々とした甲冑に、堂々たる体躯、そして赤兎馬だ。彼は一騎で近づくわたしに気づき、鋭い視線を投げかけた。そして一笑する。
「フッ、俺に一騎で勝とうというのか愚か者め。匹夫の勇か、丈夫の勇か…俺が直々に試してくれよう」
「さてもよく動く口だ。すぐに閉じてくれる」
そうしてお互いに武器を振りかざしたところで、わたしは始めてこの男に恐怖を抱いた。一回一回がまさに命のやり取りだった。方天画戟と呼ばれる彼の武器の重みは計り知れない。
「ほう、見所はあるようだな」
止められたのが意外だったようだ。確かに彼は一太刀で相手を死の淵へ追いやると聞いている。噂だと信じなかったが、こうして刀を交えば紛れもない真実だと気づいた。
(これは死ぬかもしれない)
呂布が女とて最初は侮ったが、段々鋭さが刃に篭っている。これではいつまで持つか…体力にも体格にも実力にも差は大きい。終いには腕が痺れて、とうとうわたしは疲労が最高潮に達し、落馬した。
顔すれすれに槍が突き刺さる。止めがさされると覚悟したが、痛みは来なかった。呂布は小騅に近づきそっと撫でてやる。気性の荒い馬だからわたしがなんとか乗りこなせるくらいの馬を、そいつはいとも簡単に触ってのけた。
「赤兎には及ばんがいい馬だな。名は?」
「…小騅」
「小騅、なるほど。項羽の騅からとったか。大それた女だ」
「これでも武将の端くれ、わたしに情けをかけるなら一思いにやって」
捕虜になるのも、陵辱されるのも御免だ。それならば自害を試みるが、武人として呂布に敗れたとあれば本望かもしれない。期待を込めて所望したがそれは呆気なく消えた。
「殺すには惜しい」
「…わたしは貴方の軍門には下らん」
「誰も俺の下で働けとは言っていないぞ」
意図を測りかねて男を見れば、それは獰猛な獣の目をしていた。即座にこの男が何を求めているかに気づき、舌を噛もうとする。
「…んむ!」
「早まるな。言っただろう、殺すには惜しいと」
無遠慮にもゴツゴツと骨ばった手が口に進入する。呂布が目で合図すれば周りの兵士たちが手際よく女を拘束した。疲労と傷跡のせいで抵抗らしい抵抗も出来ないままに、赤兎に乗せられる。
「小騅、貴様もついて来い」
その言葉を理解したように馬は鳴く。恨めしく小騅を睨むが既に主を呂布に乗り換えたらしい。味方してくれる者は誰一人いなかった。ああ、これではまるで項羽のように四面楚歌の状態だ。悲嘆にくれる彼女を呂布は優しく撫で付けた。それは戦陣に立つ呂布からは想像もできないほど優しかった。
「悪いようにはせん。俺と共に来い」
その男らしい言葉に女は戸惑った。武将と女との間で理性が揺らぐ。しばらくして諦めたようにため息をついた。これも天命か。
「勝鬨(かちどき)を上げろ!」
咆哮のような兵士たちの声が響き渡る。曹操はひとつの州を取られ、優秀な部下も失い、痛手を被った。その報告を奪取した城にて陳宮から受け、呂布は満足げに女へ口付けを与えたのだった。
(100529)