※少々お下品


嗚呼、嗚呼、人生如何ともし難い!

桃の花が膨らみ始めた春の訪れを喜ぶ間もなく、わたしは憂鬱に庭を眺めていた。先日とうとうわたしの嫁ぎ先が決まったからである。それも権力にものを言わせてきた老獪で汚らしい男からだ。まずもって彼が宦官という時点で嫁ぐというのがおかしい。以前宦官から張型が押収されたことがあるのを思い出してぞっとした。
己の悲運を嘆くほかないだろう。夕食に運ばれた食事にも手をつけずに窓際で泣き崩れる。このまま餓死出来たなら、そうだいっそ入水自殺でも図ろうか。
そうして生きることを半ば放り出そうとしていたときだ。

「本初、どうやら儂の勝ちだ」

さっと影が差す。月明かりを一身に受けた男が視界を遮るように立っていた。普段ならば侵入者に迷わず悲鳴を上げていただろう。しかしいまのわたしにとっては瑣末なことだった。物取りならば金目のものなり、命なり、取ればよい。人攫いならばせめてあの男の手が届かないところに。

「嫁入り前の娘さんは主だろう」
「ええ」
「宦官のところは嫌か?」
「…そう、そうね、嫌だわ」

この男は何を悠長に問いかけてきているのか。随分と落ち着いた声色にこちらのほうが面食らってしまう。おまけに窓際で胡坐をかき始めた。肝の据わった御仁で、おまけに容姿は悪くない。

「なら宦官の孫はどうだ」
「はあ…わたくしに種を宿してくださいますなら、さして」

おかしなことを聞くものだと首を傾げながら答えれば、男は人目もはばからずに大笑いをする。慌ててその口を塞いだ。誰か来たならばどうするのだ。

「はは!はっきり者を言う娘だ、気に入った。性根が悪しければ本初に押し付けようと思うたがこれはいい」

膝を叩いてわたしの腕をぐいと引っ張る。

「儂と共に来い。望みのものならたんとくれてやるわ」
「え、あ、あなたと?」
「あのような御老人と共にしたいのならばこのまま去るが」
「…ぜひ!」
「素直なやつだ」

苦笑してもなお男の精悍さは失われない。そのまま手を引かれ、導かれた。我が物顔で庭を歩く男の大胆さには驚かされたが、後日出入りする使用人から間取りを聞いたことを知ることになる。

「孟徳、待ってくれ。足を挫いたのだ」

後ろから男が足を引きずりながら追ってくる。月明かりがあるとはいえ暗い庭で躓いたのだろうか。この男が袁本初であると紹介されてたまげた。袁家と言えば、4代にわたって三公を輩出した名門中の名門だ。その嫡子たる男が目の前にいる。
ではこの隣に立つ男はいったい?孟徳という名前はどこかで聞いたことがあった。

「ここに進入した不届きな輩がおるぞ!」

男は突然大声で叫ぶ。わたしと袁本初は慌てて駆け出した。なおも叫ぼうとする男を今度はわたしが引っ張る。まるっきり立場が逆転してしまっていた。

「孟徳、どういうつもりだ!」
「なんだ本初、まだ走れるではないか」
「…おまえが叫ぶばっかりに仕方なく…」
「あのままでは歩けないと駄々を捏ねそうだったからな、無理矢理走らせたまでよ」
「む、」

顔を赤らめて袁本初は口を閉ざす。わたしたちはそのまま暗い夜道を駆け、もう大丈夫だろうというところまでやっと足を止めた。

「あなたったら、本当に奇特な方ね」
「お褒めに預かり光栄だ」
「…お名前を聞いてもよろしいかしら。我が君?」
「ああ、言い忘れておったな。儂は」


(110319)