私が見つけた時は燃え盛る業火にただただ愕然として、孟徳様は立ち竦んでいた。無理もないだろう。この阿鼻叫喚を聞けば誰でも耳を塞ぎたくなるほどに曹操軍は壊滅状態に陥っていた。あまりにも、ひどい。火の手がこちらに来る前に私は孟徳様の袖を引いて脱出を促した。

「急いでここから移動せねばなりませぬ」

こくり、と孟徳様は私に気づきなさると頷いて、僅かな供を連れて本営を脱出した。さすがは一国の将たるお方で先ほど私に見せたお姿はとうに消え、気丈に振舞っておられた。その痛々しいほどの姿に胸が引き裂かれんばかりの思いだ。

「丞相、このままではいけません、ひとまず江陵へ向かい立て直しましょう」
「そのとおりだ。この敗北は幸いなことに全てを失ったわけではない。必ずや汚名を雪いで見せようぞ」

荀攸の進言を取り、烏林(うりん)を抜けることになった。孟徳様に手を引かれて、馬へ乗り、抱えられた。降りかかる火の粉を避けて敗軍は逃げる。

「そちにも辛い思いをさせたな」
「いいえ、これしきの事。命ある限りいつまでもお供いたします」

そっと孟徳様に寄りかかる。嫌な予感は以前からはしていた。何より彼が二喬に対して特別な思い入れがあるのも承知であった。それでも私はこの人に何も言わなかった。女が政や軍事に口を出すのは懸命ではない。だが、矢張り少しでも忠告をしておくべきだった。いまさら嘆いても仕方のないことだが。

「…奉孝ありせば、このようにはならなかっただろうに」

その言葉にハッとする。悲痛な呻きにも似た独り言に私は目を閉じた。このお方は誰よりも士を愛し、士を欲し、士を悼む。奉孝もそう、離れていった関羽ですらも。孟徳様のお心にもとより私の入る隙間はないのかもしれない。
彼の怨敵劉備も「家臣は手足の如く、妻子は衣服の如し」と例えたそうではないか。この世において女という存在ほど儚いものはない。きっと私の名も後生には残るまい。下手をしたらこのまま朽ち果てるかもしれぬほど風前の灯である。

「私はいつまでもお慕いしております。そのことをお忘れなきよう」

私の声はまだ貴方様に届きますか。


(100506)

最近三国志を読みふけっていた影響。三国志に登場する女性は矢張り少ないですね。孔明の嫁選びや劉備の奥方たち、二喬などでしょうか。もっとも曹操は一度未亡人に手を出して典韋を失った経験はありますが…演義だけかもしれません。