忘憂の物
その日、曹丕は父である曹操が呂布討伐から帰還するとの一報を受けて忙殺を極めていた。伝えに来た先駆けを慰労させ、直ちに凱旋の準備を的確に指示していく。昨年に曹丕は長男曹昴が亡くなったために嫡子の扱いとなり、曹操不在の間に本拠であり今は献帝が住まう許昌を守っていた。
曹丕は文武両道を絵に描いたような男であり、留守役もよく務めた。
「なに、樽酒が足りぬだと?ならばすぐに手配すればよかろう。先に湯浴みの用意をせよ。それで時間を稼げ」
城内を歩く度に官人が様々な質問を投げかける。それに的確な受け答えをし、曹丕はご自慢の白馬を所望し跨る。既に許昌において主要な大通りに、曹操を先頭とした一団が見えていた。民が次々と祝福の言葉を述べ、家族の帰りを喜ぶ。
堂々と曹丕はそれを真正面から迎えて城門の前に、拝礼した。
「父よ、無事のご帰還真に祝着と存じます」
「おお子桓」
息子の手腕に顔を綻ばせ、いつになく上機嫌の曹操は馬から降り息子の肩を叩いた。
「なるほど。これが曹操殿自慢のご子息…さすが英気に溢れる御仁だ」
曹操に一歩下がった形で共に行軍してきたのは劉備である。呂布に本拠であった小沛を奪取されたために、曹操へ協力を要請したのだ。この後ほど左将軍の地位を与えられる。
簡単な挨拶をお互いに済ませたところで、曹操は思い出したように夏候惇の馬に相乗りしていた人物を手招きする。曹丕はその人物が近づいてきたとき初めてその性別に気づき驚いた。
「曹操様の息子さん?」
「…曹丕、字は子桓だ」
「曹丕様!初めまして、わたしはです」
落馬でもしたのだろうか。ところどころ泥がこびりついた衣服を纏う少女は屈託無く笑った。
「この者はいったいどうしたのですか、父よ」
張繍の叔父である男の未亡人に現を抜かして悪来と謳われた典韋を亡くし、曹昴の母である正室の丁氏が曹操の元を去ったのは記憶に新しい。また父の女性癖が始まったかと曹丕は眉をひそめる。
「私もぜひ伺いたいものです」
共にいたはずの劉備も気づいたら、この少女が曹操の陣幕にいたと言う。
「それは内緒にすると固く約束したからには言えん。なあ、」
「はい!」
「すまぬが子桓、こやつにも湯浴みの用意をしてやってくれ。一刻も身を清めたかろうからな」
「…こちらへ」
内心呆れつつも、この得体の知れない少女の存在が目から離せぬまま、曹丕は案内役を務めたのだった。
(110814)
忘憂の物=お酒のこと
ちょうど呂布を下し、許昌へ帰還したところ。献帝を迎えて、袁紹と確執し始めたところでしょうか?
今回は曹丕視点からお送りしました。次回からヒロイン視点に移ります。